C.F.マーティン・ジュニアの息子のフランク・ヘンリー・マーティンは、1866年10月14日にナザレスで生まれている。このとき父親はすでに41歳。待望の長男だったと思われる。幼いころからマーティンの工房で育ったフランクは、1888年11月の父親の死去で、弱冠22歳にしてマーティン社を継ぐこととなった。
FrankHenryMartin
 父親のマーティン・ジュニアが保守的というか、先代の事業の継承に務めていたように見えるのに対し、フランク・マーティンは会社の業態を変え、新製品を積極的に開発し、新たな事業にも乗り出すなど、大胆な改革路線を歩んでいく。フランクの下で、マーティン社は小規模なギター工房から近代的な楽器メーカーへと変貌をとげることになった。

 フランク時代の改革を年代順に見ていくと、マンドリンの製作を開始したのが1895年頃。当初はナポリ・スタイル(クラシック・スタイル)のボウルバックのマンドリンだったが、1914年からはフラットバック・モデルの生産も開始した。
StyleB
 
 マーティンのフラットバック・マンドリン、スタイルB。

 1898年には、それまでマーティン・ギターを独占的に販売していたニューヨークのC.A.ゾービッシュ&サンズとの販売代理店契約を破棄し、自社販売に切り替えた。この決定に伴って、マーティン・ギターのブランドに添えられていた「New York」の表記も「Nazareth, PA」へと改められた。

 この決断はマーティン社にとって非常に重要なものになったと言える。マーティン・ギターの販売を一手に引き受けていたゾービッシュは、製品開発に関してもいろいろと口をはさんできた。自社ブランドとは言いつつも、現実にはマーティン社はほとんど販売会社の下請け工房のポジションに近かった。

 フランク・マーティンが思い切って販売代理店を切る決断をした背景には、上記のマンドリンの開発をめぐる対立もあったようだ。当時ポピュラーになりつつあったマンドリンの生産に積極的だったフランクに対し、ゾービッシュ側は異を唱えた。「ギターの生産に専念しろ」ということだったのだろう。長年続いた独占販売契約が、マーティンの発展をはばむ足かせとなり始めていたわけだ。

 マーティンのギターにシリアル・ナンバーがふられるようになったのも同じ1898年からで、おそらく自社販売への切り替えに合わせた措置だったと思われる(マンドリンのシリアル・ナンバーは生産初年度の1895年から)。

 1902年には新たなデザインとなる大型ボディの000(オーディトリアム)の生産も始まった。スタイル45の投入もこの年で、新しいモデルの開発にも積極的だった様子がうかがえる。
00028
 000-28(リイシュー・モデル)。オリジナルにはまだピックガードは付いていなかった。

 1916年にはウクレレ人気の高まりをいち早く察知して、ウクレレの生産にも乗り出した(10年くらい前から試作はしていたらしい)。

 最初に作ったのは、ギターのノウハウをそのままウクレレに応用したスプルース・トップのモデルだったが、頑強すぎるブレーシングのせいかまったく鳴らず、市場の評価も芳しくなかった。そこでトップをマホガニーに替え、ブレーシングも減らしたところ、これが大ヒットした。
Style1
 1920年代頃に作られたと思われるマホガニー・ボディのスタイル1。まだヘッドにマーティンのロゴはない。



 1916年から31年にかけて、マーティンのウクレレの販売本数はギターを大きく上回っている。ピークに達した26年には年間の生産本数は1万4千本を超えた。マーティンを大きく発展させた原動力は、実はウクレレだったのだ。

 マホガニーのワンピース・ネックを採用したのも1916年、スタイル18のバック&サイドがマホガニーに変わったのが1917年と、この時期にマホガニーの導入が一気に進んだ。おそらくウクレレの製造のために大量のマホガニー材を買い付けたのが大きかったのではないか。

 ガット/ナイロン弦を張るギターからスティール弦を張るギターへと、構造の設計を根本から見直したのが1922年。ヨーロッパ的なクラシック・ギターから、新しいスタイルのギターへと大きく生まれ変わったわけで、これも非常に重要な改革と言える。

 まだまだたくさんあるので、以下は簡潔に。

・000をロング・スケール(25.4インチ)に変更(1924年)

・OM生産開始(1929年)

・ドレッドノート販売開始(1931年)

・アーチトップ・ギターの生産開始(1931年)

・ヘッドの縦ロゴ・インレイ登場(1931年)

・14フレット・ジョイントが主流に(1933年)

・ピックガード標準化(1934年)

・ネックの補強材にスティールバーを採用(1934年)

・Fモデル(アーチトップ)生産開始(1935年)

・ネック幅細くなる(1939年)

・スキャロップト・ブレーシング廃止(1942年)

 こうやって見てみると、ほんとうに改革に次ぐ改革という印象で、フランク・マーティンの時代にいかに大きく変わったかがよくわかる。フランクは1945年に引退を表明しているが、その後も47年頃まで影響力を保ち続け、48年に亡くなった。

 上記の改革のほとんどは、現代の製品にもそのままつながる重要なスペックと言える。個々の項目については、あらためて詳しく見ていくことにしたい。

 フランク・マーティンは、時代を的確に捉える目を持ち、実業家としての才にも秀で、マーティン社を大きく発展させたことで高く評価されている。その一方で、楽器職人としての側面についてはほとんどふれられることがない。父親のC.F.マーティン・ジュニアからギター作りの手ほどきは受けたそうだが、さて具体的な成果はというと、『MARTIN GUITARS A HISTORY』にも、木工が趣味で本棚やソーイング・バスケットを作ったというエピソードが出てくるばかりだ。これくらいしか書くことがなかったということは、逆に言えば楽器の製造に関して特筆すべきものはないということなのだろう。ギターの演奏もいくつかのコードを知っている程度だったという。それでも、マーティンにとって重要な人物であったことには疑問の余地がないけれど。